20年前の自分は、20年後(つまり現在)に感性が鈍くなっているであろう
ということに大きな不安がありました。
そして現在、20年前の自分よりも、感性の鋭さはなくなっていることは間違いない。
しかし、そのことに現在の自分が、嘆いたり、哀しんだりしてはいません。
(20年前の予想と、少し違っています)
大きな不安があった、という記憶はあるのに、なぜなのか。
理由は色々ありそうです。
第一に、自分一人で完結しなくても良いのかもしれない、と思えるようになったから、
なのかもしれません。
つまり、自分よりも若い人の力を借りる、ということです。
自分と、自分の周りという「全体」を考えられるようになった、のかもしれません。
身近なところでは、気になることは、自分の子ども達に尋ねてみる。
SNSを使って問いかける。
自分が関わる大学生に尋ねてみる。
仕事で関わる若い人と話をする機会があったら、仕事以外の接点を持てるように仕掛ける。
自分よりも若い人の力を借りる方法は、色々ありますね。
「衰える」ということを受け入れつつある、ということが、二番目にあります。
しかし、「受け入れる」ためには、(少々の)努力をしてきたはず。
だから仕方がないのだ。
そう思えるからこそ、受け入れる(あきらめる)ことができるのかもしれません。
努力をしてきた、という事実を介して、「年月という時間」も感じているから。
受け入れる、あきらめる、というのは、
「自分を切り替える」という作業が必要であり、
この「切り替える」ということができるためには、「心の強さ」が必要でしょう。
この心の強さを得るために、少々の努力があったのだ、とも言えるかもしれない・・・
そう感じる場面が、最近、続いています。
(2016年9月作成)